ありふれた日々なんて、気持ち次第でnew day

今更なんだという気が自分でもするのですが、最近ようやく担降りしたという自覚が芽生え始めました。
担降りしましたという長文をアップしたときにも書いたのですが、実際渡辺くんにすっ転んでから半年くらい「好きだ!降りたいかもしれない……うーん、でも……」みたいなことをずっと繰り返していたので、「渡辺くんのことを好きな自分」というのはどこか当たり前のようになっていたはずで。だから「いやいや今更担降りしたって言ったところで、あくまで担当という看板の話じゃん?わたし自身はなにも変わらないよー!」と思っていたのですが、そうではなかったようです。

たぶん人には「理性的な自分」と「本能的な自分」というのが存在すると思うのですが、この間の滝つコンを経てその両方の自分がようやく揃って「わたしは渡辺くんが一番好きで、渡辺くんを担当としてジャニヲタをしてるんだ」ってきちんと理解したような気がします。それまではたぶん、渡辺担になったんだということやこれからは渡辺くんを一番にするよう切り替えたんだということを頭では理解はしていたけれど、そんな自分にまだ慣れていないし、なんだか違和感があるような気がしていて。そもそも自分の中の理解と心情の微かなズレみたいなものを感じていた一番大きな要因として「野澤担だった自分」との折り合いのつけ方がよくわかってなかったっていうのがあるように思うんですよね。「野澤担だった自分」と「渡辺担になった自分」がどことなく牽制し合いながら様子を伺い合っているかんじで。でも、滝つコンで渡辺くんのうちわを振りながら「大好きだ」という思いで頭をいっぱいにしているうちに、「野澤担だった自分」もすっかり渡辺くんのことが好きなんだということに納得したというか認めざるをえなくなったみたいなそんな気がするし、「渡辺担になった自分」もどんどん渡辺くんの好きなところを見つけて「わたしはこの人が好きだ」ということに自信を持てるようになった。そこでようやく自分の中のモヤモヤとしたものがストンと落ち着いたような気がしました。いろんなことに気付かせてくれるから、現場はやっぱりすごいところだ。

ところが気持ちがストンと落ち着いたからといって、それが好きの温度の落ち着きとイコールにはならなくて、最近のわたしは本当におかしいのです。自分が渡辺担だという自覚を持った途端に、堰を切ったかのように自分の中から「好き」がとめどなく溢れてきて、自分でも対処ができない。どうしていいかわからない。ツイッターで、「渡辺くんの話をするのが恥ずかしい」とよく言っているのですが、まさにコレで。こんなに日々が渡辺くんでいっぱいになるだなんて予想外で、そんな自分をわたしは知らなくて完全に持て余していて。だからきっと「恥ずかしい」んだと思います。そんな自分はきっと他人の目には滑稽に映るのだろうと思っているから。

それでも、すごく好きなんです。すごくすごく好き。大好き。言葉にしようにも言葉なんかじゃ足りなくて、本当に「侵食」という単語が似合うくらい日々がどんどん渡辺くんになっていくのを感じています。それに対してわたしには成す術なんか無くてオロオロとすることしかできないけれど、自分の中に留めておけなくなったので吐き出してみました。なんだか変なかんじがしますが、この熱の高さは結局好きになって日が浅いゆえのものだって自分の中にいる冷静なわたしは冷めた目で見ていたりもするんですよね。もしかしたら、というか、きっとこの先こんな温度をもって渡辺くんを見ることができなくなる日もくるのかもしれないなとも思うけれど、2014年の今のわたしはこんな風に渡辺くんが好きです。改めて言葉にしようとすると自分でも陳腐だなあと思うのですが、渡辺くんを好きになったら世界が変わったよ!今とても楽しいです。大好き。